[岸和田地車祭300年の起源]
元禄13年(1700)時の岸和田城三代城主岡部長泰公が京都伏見のお稲荷 さんを城内三の丸に勧請建築されたのが起源。それまでの祭りは藩士に限ら れ、濱方には戎さん、町方には辻つじの祠さん、村方には鎮守の森さんを敬 い庶民の祭りごとを楽しんでいた。元禄15年(1702)藩士に限られていた祭 りが広く濱方(漁師)、町方(商人)、村方(農民)・(今の三郷)に開放された。
当時の地車らしきものは、長持ちに車をつけたような物で「5尺に2尺5寸の車 付引檀尻」で太鼓打ち一人が乗り、その上で神楽獅子を舞いながら城内の三 の丸に奉られた稲荷神社に詣で、二の丸御殿の前ではにわか芸など披露して お殿様のご機嫌を伺い、お褒めの言葉を賜りしのち町々を練り歩いたとある。
今も城内三の丸稲荷神社には往時の地車が奉納されている。 爾来、岸和田地車祭りの形態が変遷をたどっているのが、昭和の初め頃まで 祭りは神事として執り行われており、世の平安無事と五穀豊穣を祝い、前の日 は塩かけ神事・後の日は神様をもてなす行事として、各町の分相応の芸事を 披露し共々に年一度の祭りを自祝したとある。
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