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 岸和田地車(だんじり)祭りへ行こう


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  岸和田だんじり祭り知っ得情報 

                                      
 
[岸和田地車祭300年変遷]  

(1)日本の祭りの分類

  1、農事、(生活)関係(岸和田祭りなど)
  2、悪疫退散を祈願(祇園祭りなど)
  3、先祖の霊の招魂と回向(天神祭りなど)
   お祭りは「神様と人間が出会うところ」と、実に美味い表現があります。
   ちなみに、日本国中のお祭りの数は、およそ800もあるといわれます。
   また、人はなぜ祭りをするのか?と問われれば、
     @生きていることの再確認、
     Aお金とエネルギーの発散。
    B今と言う瞬間に感謝。がその答えだそうです。
  近年、わが岸和田だんじり祭りも、とうとう日本の十大祭りに数えられる
  ようになりました。

 (2)だんじりの原点は「神籬(ひもろぎ)」
   神々の降誕の宿である「ひもろぎ」は、古来神霊が宿っていると考えた、    
   山・森・老木など、周囲に常緑樹を植え、玉垣で囲んで神聖を保った    
   ところであり、のちには、鏡・馬・人形などのお供えと、真上の榊    
   ・四囲には笹・かがり火を配置したものに変わってきた。これを立    
   てると「鉾(ほこ)」。車に乗せると「「山鉾(やまぼこ)」や    
   「地車(だんじり)」になる。
   
   京都の祇園祭は、貞観十一年(869)に、疫病(天然痘)の流行に    
   より、不遇の死をとげた霊魂のたたりを慰める、    
   祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が初めてであり、これが全国に    
   散らばり、屋台(やたい)・山車(だし)・みこし・だんじりに変身    
   していったと言われます。
   


 (3)だんじりの形態とお囃子
   だんじりの形態については、天正十七年(1589)年に、豊臣秀吉と
   淀の間に、第一子(つるまつ)が誕生したが、3歳で夭折(ようせつ)
   し、その姿を玩具に乗る鶴松の木像(段尻屋台(だんじりやたい))に
   して、在りし日の姿を偲んだのが原型と言われ、その後は大きく分類する
   と、上(かみ)だんじり(大阪市内等)・下(しも)だんじり(岸和田
   等)にわかれ、さらに四ツ屋根(長滝中ノ番)・3ツ屋根(大阪天満宮)
   ・二ツ屋根(関西一円)に発展した。
   
   また、だんじり囃子については、天承十一年(1583)大坂城を築城の
   際、石垣造りの石を運ぶときに、はやしたのが始まりと伝えられている。
    なお、上だんじりのお囃子は、現在も多種多彩であり、一部に「コン
   コンチキチン」の祇園囃子があり、ルーツを感じさせる。

  


 (4)大形のカラクリだんじりの登場
   初期のだんじりは、長持ちに車をつけたもので、次に「荷ないだんじり」・
   「引きだんじり」など多様となり、ついに、天明五年(1785)に、北町の
   油屋治兵衛が世話人となり、泉大津方面から、彫り物の立派な大形
   のだんじりを借りてくるも城内に入れず、やむなく杉の丸太で柱を作り
   替え、四本柱に万力(まんりき)を仕掛けた「カラクリだんじり」に改作した。
   さらに翌六年、北組の大工・安右衛門により、銀350匁のだんじりを新調
   し、3〜4年曳いたのち、町中の大工が力を合わせ、先の油屋治兵衛宅に
   て銀900匁のだんじりを新調した。これが現在の大形だんじりの原型で
   あると言われる。

     


       嘉永四年(1851)に、岸和田藩へ幕府より、日光東照宮の修繕が命
   ぜられ、当時、日光奉行以下、約100名が現地に赴いた。
    安政二年(1855)になって、この日光東照宮の建築に見せられた
   名工が、大屋根の葺地(フキヂ)に、陽明門の唐破風(からはぶ)をつけた
   と言う。今は無き本町の四ツ屋根だんじりが製作されている。

    


   なお、現、泉佐野市長滝中ノ番所有の四ツ屋根だんじりは、文久二年
   (1862)に、大工町が新調した名地車であり、名工・大弥三一門の
   梶治三郎重忠の作であり、四方軒唐破風・唐様四手先枡組様式で、万力
   のカラクリ地車となっていて、現役で今も蟻通神社の鳥居をくぐり抜ける
   時、このカラクリを使っている。
      泉佐野市有形文化財にも指定されています。

       


 (5)豪華・絢爛・檀尻から地車へ
   岸和田では、だんじりと言う次を漢字に書くと、現在では「地車」と書き
   ますが、それ以前は「檀尻」を使っていて、これは明治十八年の五軒屋町
   の入費割打控の表紙に書いています。筋海町・櫻井工業株式会社所有の
   大和絵図面には、だんじりの見送りに「御簾(みす)」が掛かっていて、
   ここに神様をお祀りした事から「檀尻」のあて字が使われたと言われます。
   元禄文化の発祥と共に出現しただんじりは、天下分け目の関が原の合戦
   が終わり、徳川家康が天下を平定させた背景を元に、いわゆる「力より金」
   の時代到来と共に、豪華・絢爛を競うように成って来て、しめ縄が変形した
   「金縄」、吹流しが変形した「吹きちり」等、ぜいたくを極めることとなって
   きました。

       


     (6)岸和田だんじり祭り!300年祭万歳!!
   元禄年間に始まり300年。今や世界の祭りとして年々発展を遂げ、常に町
   衆が主役として200年の伝統を誇る年番制度を中心に、地車祭礼町会
   連合会・サポーター役として近年結成されただんじり祭運営協議会・観覧
   席を設置し見せる祭りへと、だんじり祭振興会など、祭環境も整ってきまし
   た。
    町づくりの原点でもあるだんじり文化は、未来永劫不滅であります。


 
 参考資料 年番冊子
                 岸和田だんじり会館
                      初代館長 松山 勉 氏 文より

                                              
 



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